第110回
僕達のダメ 世界の終わりの終わり
 気持ち悪い言い方かもしれないけど代わりの言葉を思い付かないので「僕達」という言葉を使う。
 ここでいう「僕達」がなにを指すのかというと、それは2chや双葉に書き込む「僕達」であり、くだらいなにかをネットに求める「僕達」であり、アニメや漫画やライトノベルを語る「僕達」だ。
「僕達」の共通事項はなにか? 「僕達」を結ぶものはなにか?
 wwwwを多用したりする共通の言語か? 涼宮ハルヒか? 
 そうではないだろう。それは「僕達」の癖であり、「僕達」の好きな物だ。
「僕達」の共通事項はダメだ、ということじゃないだろうか? 社会とうまく折り合いがつけられない、という意識じゃないだろうか?
 女にもてないこと、童貞であること、引きこもりであること、無職なこと、友達が少ないこと……そういったダメの連帯感が個別の「僕」を「僕達」にしているんじゃないだろうか?
「僕達」はダメだ。ダメだから「僕達」なのだ。
 なぜ「僕達」はダメで連帯するのか? いろいろな理由があるだろうけど、それは取りあえずおいておく。


 こういったダメな「僕達」を作品化したのが佐藤友哉「世界の終わりの終わり」だ。
 北海道の田舎で暮らし、作家としてデビューしたもののほとんどクビを言い渡された状態の僕が主人公。僕は脳内に妹を住まわせていて、妹に精神的に慰められたり、肉体的に慰められたりしている。実にダメだ。
 僕はモラトリアムというか文学的にダメ人間で、ダメであることを絶叫し、かなり絶望的に笑えない状況なのになぜかコミカルで、最終的には魂の滅亡と救済が表現されている。
 このダメさは「僕達」の理想とするダメさなんじゃないだろうか? 「僕達」はこういうダメさを望んで居るんじゃないだろうか?
 おそらくこの作品の僕は作者の佐藤友哉自身がモデルなんだろうけど、佐藤友哉は三島由紀夫賞だって受賞してるし、結婚だってしてる。全然、ダメじゃない。
 そしてそれと同じく「僕達」のほとんどはきっと本当の所はそれほどダメじゃない。どちらかといえば、ダメでありたい、と思っているんじゃないだろうか。ただ普通にダメなだけじゃなく、努力する時は努力できて、成功をつかむことだってできる。そういう都合がよくて気持ちいいダメな「僕達」の理想の姿を佐藤友哉は表現したのだと思う。
 僕にはこれを批判する気など微塵もない。物語とは多かれ少なかれ都合がよくて気持ちいいものだからだ。
 ダメである「僕」を表現するなんてことは文学じゃ普通のことだ。
 そうではなく「僕達」の理想像としてのダメを表現した作品が生まれる現代とはなんとおもしろいんだろうと思っている。