第37回
強さについての考察
 僕が最初に気づいたことじゃないだろうとは思うし、これから書くことはただの疑問提起で、仮の答えしか出てこない文章だ。実にファックだ! クソして寝ろって感じか? オラッ!
 しかも僕が勉強不足なだけで、既に誰かが同じような文章を書いているかもしれない。そもそも僕が物凄い勘違いをしているかもしれない。
 まぁ、そういったことを踏まえてもらいつつ本題に入ろう。
 死のリスクを背負ってまで強さを求めるキャラクターって、もしかしてたかだかここ数十年の間に生み出されたんじゃ? という疑問が僕の頭を支配している! なぜ、んなことを思いついちまったのか? それは山口貴由『シグルイ』の原作の小説、南条範夫『駿河城御前試合』を読んだからだ。
 剣術の試合が十一も描かれ、それぞれに違うキャラクターが登場するというのに、純粋に強さを求める奴が登場しないのだ。『ドラゴンボール』や『餓狼伝』『グラップラー刃牙』『バガボンド』などの己が強くなることを最終目的としたキャラクターが登場する作品を読みあさってきた僕にとっては意外な展開。だが以前『バガボンド』を読んだ時に、昔の剣術家は死を恐れずに純粋に強さだけを求めていたのか? という、逆の疑問を感じてもいたのだ。
『駿河城御前試合』と『バガボンド』には刀で戦うという共通点がある。刀で戦うということは、殺し合うということだ。『駿河城御前試合』では名誉や出世のため、もしくは恨みや怒りを解消させるために戦う。そしてその時に生ずる死のリスクを減らすために強さを利用する。『バガボンド』では死を乗り越えた所にある崇高的な強さを求めて戦う。現実的というか利益や欲望の観点から見ると『バガボンド』に比べて『駿河城御前試合』の死は重い。勿論、思想的という求道的な意味では『バカボンド』の方が重いと思う。これはどっちの作品が優れているとか、そういうことを論じている文章じゃないからな、念のため。
 これは想像なのだが、戦争などを経験して死を身近に感じていた世代は死の危険性が高い場所で強さを追求する『バガボンド』にリアリティを感じないのではないだろうか? 逆にいえば『バガボンド』のリアリティは死を身近に感じられなくなった世代にこそ通用するのでは?
 リアリティがねぇ、とわかりきった設定で作品を書く作家はあまりいない。…ってことは戦後しばらくは死を背負いながら崇高な強さを求めるキャラクターは存在しなかったんじゃ……。っていうか概念自体が戦後に生まれたのでは?
 いやだがしかしである。そういった視点から吉川英治『宮本武蔵』をどう解釈すればいいのか? だいたい剣の道に生きる、というような求道者は大昔からいたんじゃないのか? 戦争を経験しているのに死人ばかり書いた隆慶一郎は? 武士道はどうすんの? などという反論もあろうが、それは強さとは別な死の倫理観に基づいた話になる気がするのだ。
 んー、調べると面倒そうなんだが……調べてみようかな。だけど調べれば調べるほど僕の主観に左右されてしまいそうなテーマだよなぁ。というわけで煮え切らないままに終了!